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読む価値の無い小泉批判の氾濫

選挙に大勝した小泉自民党。小泉批判は前にもまして増えてきている。小泉批判の文章は多くの雑誌やインターネット記事で見ることができるし、実際たくさん見てきたが、そのほとんどは読む価値が無いものばかりだった。
それはなぜか。
その答えは簡単で、それらの多くが小泉純一郎という人物像やその政策像を全然捉えていないまま表層的な批判に終始しているからだ。

例えば小泉政権への形容詞として「ポピュリズム」という言葉が使われる。しかし今でこそそうではないが、国民の支持がさほどもあったと思えない郵政民営化を重要視する姿勢、国民全体の感情が先走りしがちな北朝鮮への対応での慎重な態度、これらのどこにポピュリズムがあるのか。「アメリカのポチ」他の形容詞にしても同様である。
表層的にそう見える部分はあるにせよ、そうした言葉の集合で今の小泉政権やその施策の多くを表現することはできていない。つまり、言葉が実像を捉えきれていないのだ。行動パターンを包含しきれない形容詞の集合で全体を表現できるはずがない。
例えばこれが田中康夫であれば、「売名」「負けず嫌い」最近では八幡洋氏の検証などでその行動パターンのほぼ全てが説明可能である。それはつまり、詐欺師の詐欺のネタバレがされているということでもあり、それゆえに田中康夫は支持率が激減している。小泉がたとえ詐欺師であろうとも、ネタバレしていない手品師を的外れの予測で批評する手品師以下のレベルの評論家では本流にはなれない。

実像を捉え切れていないものに対して批判の言葉を投げかけても的外れになるのは当たり前。眼底に映し出された小泉像への批判であり、実体の小泉への批判に十分になりえてないのだ。小泉批判の多くがピントがずれていて、そうした人達の予測が外れることが多いのも特段不可思議なことではない。
小泉批判をするのは「サヨク」「マッチポンプ」の朝日をはじめとする報道や評論家・文化人だけでなく、どちらかというと「ウヨク」系の論客にも小泉批判は多い。どうしようもない文化人や野党政治家による小泉批判は論外として、最近では岩見隆夫・中西輝政・桜井よしこだけでなく、福田和也などの気鋭の論客も小泉批判を試みているが、やはり実像を捉えないままの一面的批判に終わっていて、それで金を得ている論説のプロの作品としては物足りなさを感じさせる。

報道が流す小泉純一郎像に惑わされる受け手という逃れられない側面がある。報道といっても営利団体であることをついつい忘れがちであるが、報道は常に恣意的な像を流す。
森内閣以降はとりわけ顕著だが、報道が流してきた政権像は常に意図的な歪みがある。像に歪みがあることは知りながら、その歪みを意識せずに受けてしまう。その結果、そこから連想して生み出される思考にも歪みが遺伝する。ここに悲劇を生む大きな要因がある。



10月29日(土) | トラックバック(0) | コメント(2) | マスゴミ | 管理

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コメント

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 by Nina Fedorova | Mail | HP | 8月13日(日)

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